昭和52年01月03日 朝の御理解
御理解 第52節、
「信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚く事はならぬぞ。」
驚く事はならぬぞ、と言われても驚かずにはおられないというのがまあ一般の人の信心じゃあないでしょうかね。という程しに本当の信心が出来ていないと言う事です。本当の信心が出来てしまうと言う事じゃあない。本当の信心に姿勢を向けておる、そしてこの信心を進めてさえ行けば間違いの無い道が開けれるんだと確信の出来れる信心を頂いておらなければ、驚くなと言われても驚く。
そりゃあ中にはね非常に度胸の良い人が有りましてね。信心無くても本当にどんな事が起こっても落ちつき払っておる人がございます。これは信心から生まれてくる度胸とは違うのです。信心から生まれて来る度胸というのは神様を信じるから心が安らぐ。どんな場合であっても驚かんで済むと言う事になる。かえって度胸の座った人やらはかえって身を危険に曝す様な事すらある、有りかねないです。いわゆる糞度胸と言うですかね。信心が無くてある度胸は糞度胸だと思うですね、私は。
切った張ったと言った様な場でも平気で出入りをすると言った様なのはこれは本当の度胸じゃない。糞度胸。神様を信ずるからどの様な事の場合でも驚かんで済む信心。そういう信心をひとつ目指さなければならないと思うですね。私は昨日お風呂から上がってから薄着をしておりましたから、部屋は暖房が入っとるしその風呂から上がった後ではありますし一寸やはり油断をしたわけですね。そしたらなんかこうゾクッとした感じがしたらやっぱ風邪はああいう時に風邪を引くんでしょう。
昨夜は熱が出てもう背中が水を掛けられる様に寒い。それでも十二時頃また何時もの様に此処にお礼に出て参りました。そしてその体がゾクゾクする事もお願いさせて頂いとりましたら『仰向けになって寝め』と頂いた。私は仰向けに成って寝きらんのです。必ずこの右か左かに枕を付けなければ寝めんのです。ですから仰向しにこうやって姿勢を正して寝むという事は私は出来ん、寝れんですそれでは。
けど神様がそう教えて下さったんですから早速仰向けにそれでもやっぱり寒いし暖房も少し強いのに高くしたり毛布を着たり、そうするけどやっぱり寒いです。今朝の三時頃迄ですから十四、五分だったでしょう、その姿勢を正したまんま仰向かせになったままこう寝とうるからやっぱり寝られん訳です。そしたらやっぱり十四、五分間ツルッと寝んでそして眼が覚めた時にはもうスッキリしているんです。背中がゾクゾクせんのです。私は本当に今日は思いました。
信心とはね、神様の言う事を聞く事ですよ信心とは。神のいう事は途中で落としてしまい、自分の良い様にするからおかげにならんと仰る。だから私はどう言う事であってもです、言うならばなら仰なかせに寝めと言った様な事やらまあ言うなら馬鹿んごたる話でしょう。信心の無い人が聞いたら。けれども神様がそう教えて下さったから、寝にくいけれども中々寝られんねその姿勢が普通の眠る姿勢と違うもんだから。天井を眺めてこのまま真っ直ぐ上を向いて寝んだ。
そしたらほんの十四、五分、三時まで覚えとったですから、三時十五分に何時も起こさせて貰う。その起こさして頂いたたった十四、五分間の間に体がスッキリしてるんです。今日は親教会のお節でもあるし、善導寺の久保山先生ところの十年の式年祭やらも私奉仕させて貰わんならんのにこげんとてもぞこぞこしたりして頭が痛かったりするならどんこんでけんがと、とまあ思いが有りましてからお願いになった訳です。
そしたら神様からその病気とはどう関わりり合いがあるかそりゃあわからんです。只神様がそう言って下さるから言う事を聞くだけの事。右向けと仰るから右を向くだけ左を向けと仰るから左を向くだけ。なら左を向いたらおかげになりますか、といった様な神様に念を押すような人が有ります。そこはもうどうでも良いのです。神様が右と仰るから右、左と仰るから左と。
昨日は日田の国師さん池田先生がお取次ぎさせて頂いたそうですけどお礼に出て来とります。暮れからあのパ-マ屋さんをしとんなさいます。それで香港行きの切符を卸屋さんからその是非ちっとばかりまあ頼まれとってくれという事。やあとてもそげなんことはうとあたりのお客さんやらじゃどうじゃろうかとまあ引き受けたとこで三枚か四枚か。とにかく私が合楽に何時もお参りするところでお尋ねしてから引受けましょうと言うて神様にお願いに来たんです。
そしたら神様から『四十枚ち頂いたんです。どげん考えたっちゃですね、私しもそりばってん頂いた事じゃから四十枚買うたら良かろうと私言いました。そしたらもう本当に四十枚ですねと言うてもう念を押してね四十枚買うとるです。所が暮れまでにもうピッチリ四十枚売れてしもうたそうですよ。もう驚いてしもうてからねもう親先生の一言はもう神様の一言じゃから本当に守らにゃいかんと言う事がこれを見ても分かると言うて、昨日はお礼に出て来とります。そりゃあ例えば千円か二千円のもんならですね。
香港行きですけんあなた中国に行くその切符が四十枚、神様も言いなさる事も言いなさると私思いましたです四十枚。始めは四と頂いたからはあ四枚かなと思ったんです。だから四枚ち言おうと。向こうでも三枚か四枚かあち言いよるとじゃからね。そしたら零ば頂いた。こりゃああんた四十枚ち言うて四十枚買った。四十枚キッチリ売れてしもうてまあ大変面目を施したと言う訳なんです。
これも昨日飯塚から親子四人で出てお礼に出て来ましたが、娘さんがもう小学生の五、六年生位なりますでしょう。非常にもう病的にオシッコガ近いわけです。授業中に二遍づつ立たにゃあいかん。晩は親が洩らさせまいためにはもうかかっとらんならん。只普通でいうその所謂寝小便とは違うわけです。本当にやっぱし病気です。もうあらゆる薬も飲うだ、医者にも掛かったけれども治らない。お願いにそして昨日お礼に出て来てからもう本当に嘘の様におかげを頂いた。
先生があの時に、もう医者で良うならんもんなら医者を止めなさいそしてどげな薬飲みよるか知らんばってんもう御神米とお神酒さんだけにしときなさいと言われて、もうそれでピッチリ薬も止め医者にちっとは効果あるごたるなら薬も飲まんならん医者にかかって良かろうごたんなら医者にもかからんならんけども、それだけお願いして飲んだりしていけんごたるならもう神様一心にお縋りしなさい。飯塚教会の大体総代さんなんです、だから信心の事は大体分かってる人です。
昨日は本当におかげを頂いてからそれこそ晩寝ませて頂くでも安心して寝まれると言うてお礼に出て来た。是なんかもう神の言う事を聞いた訳ですよね。それが一事が万事に生活の全てにです神の言う事を聞く信心と言う事を今合楽では心行と言うておるのです。心にずうと心行し続いておる。暑い寒いを言うてはならぬ、いやむしろ暑ければ暑いでお礼を言わなきゃいけん。寒ければ寒い神様の御恩恵だから御恩恵として、ああ寒か寒かと言わずにその寒いという口でおかげを頂いてとお礼を申し上げねばにゃいけん。
不平不足を言うてはならぬ。心行を心の中にしておりますと不平不足が出ようがない。暑いときでも寒いときでもその事にお礼が言えれる、と言う様にです心豊かにあられるのが心行です。勿論心でする修行ですからね、様々などういう場合であっても心の中に有り難いと受けられる、又はそれが大きな問題であってもどっこいと、こう言う事でいよいよ心を豊かに大きくして下さる神様の働きだなと言う事になるのです。
心行を怠っておるときに何かポカッと起きてくるから驚かなきゃあならなかったり、腹を立てなければならなかったり不平不足を言はなければならない事になるのです。昨日私は大体年賀状と言うものを出しません。だから来てからそん中に出さなければならない人の場合はいつも西岡先生に買いて貰うて出して貰うんですけれども、もう今年は全然出しませんでした。おかげで段々減って来る。減って来ると言うても御信者さんからのやら沢山来るんですけれどもまあ年賀状は書かない。
昨日年賀状が来とったのを見せて頂いとったら、善導寺の岸先生から毎年来るんです。年賀状が来ておるんです、もう先生は私が書いたものを、読んだんじゃあなかろうかと思う様な同じ様な事を言うておるし、いや先生はなかなかの信心本当に、私共の少年時代からあちらの信心に憧れとった位ですから、もう教学でももう本当に、この人の右に九州でも右に出る者は居るまいと言われる位な、教学者であると同時に実行者である。もう非常に徹底した修行をされる。
永年親教会の総代を務めとられる方なんです。一寸読んでみましょうかね。「謹んで新年の御祝詞を申し上げます。金光教祖は「天地日月の心になる事肝要なり」と真・善・美を越え「偽・醜・悪ですね。真・善・美の皆反対、偽物、醜い又悪と読 みます。」偽・醜・悪をも浄化する大いなる心を強調されています。新しい年を迎え、この末世的世界を救う道は、天地日月の心を基調とした、日々を行ずる働きにしか無いと思われてなりません。私も此の三日で満七十の歳を迎えさせて頂きます。
今更ながら生かされて生きておる有り難さに感涙を禁じえません。御一家様御健勝御多幸を心から お祈り申し上げます。」何時も素晴らしい名文句でこうして、毎年年賀状を頂きます。今先読んだところ私が言うておる真・善・美といい、天地日月の心を真にしてのそれを基調としての生き方、もう本当に危機迫る様な言うならば寒天危地を歓天?地にして行けという寒天危地、寒い天、危うい地、もう地球上に死相が出ておるとまで私はお知らせを頂いておる。
だからこれを回復させると言うか、おかげを頂かせて頂くためには和賀心より他には無い。為には天地日月の心をいよいよ肝要とする信心を身に付けて行く以外にはない。それが基調になるものなんだ。先生もここに言っております。この末世的世界を救う道は、天地日月の心を基調とした日々を行ずる働きにしかないと思われてなりません。だから金光様の御信心を少し研究した人やすんなら、これが本当に日月の心にならなければ和賀心も生まれて来ないことを知っている訳です。
けれどもなら果たしてそれがどういう様なおかげに繋がっておるかと言うと、おかげに繋がっていないところを見ると知っておるけれども行じていない。いやどういう風に行じたら良いのかとすら分かっていない。只天地日月の心になることが肝要だとこれが信心の基調になるのだと知っておるだけで、ならどういうような生き方をさせて頂いたらそれが基調となるか、自分の血肉になるかと言う事を結局教える人がない、それを行じて体験を聞かせて呉れる人もない。
そういう意味で合楽の方達は、ここん所をほんなら如何にあることが天地日月の心になる事かと言う事を、まあ最近では合楽理念に基づいてと言う事の内容を言うとどうでもこの天地日月の心というのが出て来なければでけんのでございます。しかもほんならもうそれは大変な難しいこっちゃろう、世界を浄化する世界を和賀心で塗りつぶしてしまう程しのおかげを頂くことのために、言うならば死相が出とる地球上をです、復活させる生き返らせる為には和賀心を世界に広げて行く以外にゃないのだ。
そういう大きな願いに立たせて頂いて私共が日々信心の稽古をさせて貰うて同時にそれを行の上に顕しておる、その言うならば真になるところは心行であり、その心行をしよらなければ天の心にも地の心にも又日月の心にもなれないという事です。限りなく美くしい麗しの心天の心、無条件で御用をする無条件で与えて与えて止まない心。皆さんが大祓信行を一生懸命なさる、あれは無条件に天地の親神様に神様の糧にもなるものとして、一生懸命大祓信行なさるあれが無条件。
何か貰わねばならんから、これをお願いせんならんから十巻大祓いを上げたというのとだ違う合楽で言う大祓信行は。無条件のものそして神様が生き生きとして見えて、本当にかく自分のお広前ででも自分のお家の御神前でも、もうそれこそお勇みを頂き続ける程しにお勇みが頂ける様な、と言う事は神様が如何に生き生きとしてきなさったかという事を物語るものです。そして神様に差し上げる言うならば御神飯の様なものだとして無条件にお道の信者信奉者としてはもう当然の事として大祓信行させて貰う。
そして神様が生き生きして下さるとだけ思うとった所がどっこいそれどころではない。自分の心なる神様まで生き生きしてきなさった事に皆が最近体験しよるわけです。無条件ちゅう事はそんなに素晴らしい事なんですね。我が心なる神が生き生きとして見えるその生き生きとした心で心行に取り組む。地の心と言えばそれこそ受けて受けて受け抜かせて貰う。どんなにきついことであろうが難しい事であろうが腹の立つことであろうが神様がこの様にして大地の心を分からせて下さるんだ。
いよいよ大きなおかげを頂かせて下さるために寛大の寛の字です。ウ冠、草冠を書いて見ると神の働きと見るという修行をさせて貰うて、それを黙って受けて行く大地の信心と。日月の心これは実意丁寧神信心と言う事なそうと思えばそれこそ子供でもなせる事しの事をです、おろそかにしてきておった事に最近合楽では気づかせて頂いてそういう信心をさせて頂く様になったら毎日毎日奇跡と思わねばおれないおかげが立ってきたと言う事ですね。今まで洩れよったそれが洩らさんで済む様な事。
だから皆さんのこころの上にも家族の上にもそういう信心が出来る限り洩らさんで済むおかげを受けられる事です。そこでです天地日月の心と言う事はね、難しいことじゃないね。今のあんたが持っておる問題を天の心で受けて行くことだよ地の心で受けて行く事だよと言う事、それがどう言う事になるかと言うと神の心を心とすると言う様な偉大な信心になって来るのです。そうでしょう、天地日月の心を自分の心に頂いたらもう天地の親神様の心を心として頂いた事になるんです。
だからおかげを受けるんです。楽しいです有り難いです。これを知らんまでは辛抱が出来なかった事が辛抱が出来るですね。金光者と申しますかね金光教信心者、信奉者がです今この先生が書いとられる本当に天地日月の心になること、もうこのまあ濁りに濁ったこの危ういまで神様が肌に粟粒を感じなさる様な世の中の此の状態を神様がご覧になって、これをどうでも歓天喜地に変えて呉れよと言うのが合楽にかけられた神の願いだと私思います。歓天喜地と言うのは歓びの天、地は喜びの地です。
歓迎の歓はこの歓びですね歓天、喜地と言うのは七という字を三つ書いた喜び。神様が喜んで下さり地上にも喜びが満ち溢れる様な言うなら世の中にして行く。それにはそれこそいよいよ和賀心時代を世界に広げて行こうと言う大きな願い、大きな意欲を持って信心をさせて貰はなければならない。ためにはですもう限りない神様の御恩恵を御恩恵として受けられる事の為に心行を怠って表行では駄目。もう表行はもう金光教的なものではない。金光教とは言えない。
金光教では表行をしてはならない、とまで私は極言しておるわけですけれども。表行する暇があるなら心行させて貰う、表行をする積もりで心行に取り組ませて頂いたら、そこからですどの様な事が起こってきても驚かんで済むと言う様な信心が自然に自ずと備わって来るのです。不思議です。神様の言うことを聞いておる、言う事を聞きよらんけんで何時、どげな事が起こるじゃ分からんと思うてヒヤヒヤしよる、ヒヤヒヤしよる所に起こってくるけんハッと思い上がらんならん。
神様の言う事を聞いておるもう信心とは神様の言う事を聞く事、そこに素直というものが素直心というものが求められるわけです。理屈じゃないです。只仰向けに寝んどけと言われるからきついけれども仰向けに寝んでおるだけの事。たった十五分ほど余りの間に今までゾゴゾゴしよったり頭がズキズキ本当に嘘のようにおかげを受けておるという事実をね今日私は体験させて貰うて、ああ信心とは神のいう事を聞くことだとこれはもう決めての信心だと思います。
飯塚の土師さんと申します、土師さんの事といい、日田の国師さんの事といいそりゃあとってん無理ですばい、40枚私共はとてもそげな事は出来んち普通なら言う所でしょうね。親先生が仰ったからもう例えもう引き受けたからには損したっちゃ良かという位なやっぱ度胸がいるんじゃあないでしょうか。言う事を聞くというには、医者も薬も捨て切るという一つの勇気がいる訳です。
それがその事だけではないもう日常の事の茶飯事のなかに神のいう事を聞く生活を以て信心生活だというのです。ならどう言う事を聞くかと言うと天地日月の心になることが肝要だよと、このように噛んで含める様に教えて頂いて居るのですから、ここは天の心で行かにゃいかんてじゃなと。ここは地の心で行かにゃいかん、もうこういう所が日月の心にならんといつもおろそかになっておったんだという風に。
心行をしておると気付くです。そういう意味で心行を大事にそういう言う事を聞く聞いて行っておる所からです。安心の生活言わば安心が許される訳ですね。この頃教祖様のお言葉の中に例えばコレラが流行ったからというて怖がる事いらん。例えば向こうから警察の人がやって来よる、悪い事をしとると一寸逃げたり隠れたりしょうごたる。どんなに向こうからコレラがやって来よっても。
日頃神の言う事をいうなら聞いときゃです。それこそ悪いことをしとらんのだから安心じゃという様な意味の御教えがございましたですね。確かにその通りなんです。神の言う事を聞いておるのですから例えどういう形の上に現れて参りましてもそれを神様の御神慮として受け止める事が出来る。もう本当に楽しいです、いや有り難いです。それを受けるたんびに心がいよいよ豊かになるです。
だからいよいよ豊かなおかげが約束されるんです。もうこの位に楽しう容易うやる気になればやれれる信心、言うならば岸先生のここに年賀状に書いて有る様な事は。恐らく少し金光教の信心をした人ならば、誰でもそれどころじゃあないち思うとるでしょうけれども、実際は天地日月の心になる事肝要と仰るその肝要な所を肝要に頂かずに行じずに、神の言う事はもう途中で落としてしもうて自分勝手なことをするからおかげにならんという世界だけしか無いことになるですよね。
どうぞ。